アダム・スミスの誤算
アダム・スミス=国内経済重視派
私は「アダム・スミス=小さな政府論者・規制撤廃論者・自由貿易主義者」と思い込んでいたのだが、著者が読み解く『国富論』からは、スミスが国内経済重視派だったことがわかる。彼が生きていた時代、自由な経済活動を与えれば、資本はまず国内に集まると考えられていたからである。土地や労働よりも商業や金融が重視され、貨幣が世界中に浮遊している現在を見たら、スミスは逆に何らかの規制を敷いて、この流れを止めようとすると推測されるのである。
また、スミスは『国富論』以前から道徳哲学者として名を知られていたのだが、著者も本書の多くの部分を割いて道徳について言及している。徳無き経済を批判的に捉えているのだが、これは単純な構造改革論者や経済グローバル化推進論者に一石を投じるものだろう。
規制を無くし、経済をグローバル化することが我々の幸福に結びつくかどうか、もう一度考え直す上での好著になると思う。
アダムスミスの誤解、そしてグローバリズム問題。
“われわれは、この二人の経済学者であり思想家であり文明評論家であった偉大な人物から多くのものを学ぶことができると思う…彼らが考えた問題状況は、程度の差はあれ、基本的に現代のグローバリズムの問題とあまり変わらない。(5頁)”と佐伯氏は言う。
「この二人」というのは、アダムスミスとケインズの事である。そしてこの二人から著者はグローバリズム問題を考える。上巻ではアダムスミスの事を論じる。
そして“経済学の父といわれているアダム・スミスの重商主義批判から、グローバル・エコノミーへの対抗という観点からみることができるだろう(23?24頁)”と佐伯氏はアダムスミスの着目し、“市場主義の最初の擁護者はスミスであった、資本主義の最初の擁護者はスミスであった、グローバル・エコノミーの最初の提唱者はスミスであった。…だが本当にそうだろうか(28?29頁)”と懐疑の眼差しを向ける。
序章は「誤解されたアダムスミス」と題されている。“私はスミス研究者でもないし、経済学説氏の専門的研究家ではない。(29頁)”というお断りはあるものの、題から察するに、著者は「アダムスミスは誤解されているのではないか」、と思ったという事だろう。
また“スミスは、彼の生きた時代に、彼と生きた政治状況、社会構造の中で回答を与えたわけである。その回答をそのまま受け止めるとすると、われわれは間違いかねない(35頁”と佐伯氏は言う。アダムスミスの回答を額面通り受けとるのではなく、時代・政治・社会の過去と現在と状況を見比べて、それに配慮した上で、アダムスミスを考えてみせようということなのだろう。
私はこうした類の本はあまり読まないので、こうした示唆が世の中にどれだけ出回っているのかは私にはよく知らないのではあるが、アダムスミスは今の時代にどのような疑問を投げかけているかといった問題設定し、考えている人というのはこれといって私は聞いたことはない。となればやはり、佐伯氏独特のアダムスミス論が展開されているのが本書だという事なのかなと思った。
この際、国富論を今一度読みたくなってきた
現代はグローバルリズムの進展と関連して国家や地域のアイデンティティーが問われている。この課題を考えるにあたりアダムスミスを再考しようというのが本書(上)の目的である。
この目的に対する本書の回答内容を代表して表現すれば、スミスの時代も現代も共通の課題があり、それは『商業活動が、ナショナルエコノミーにおける生産という「確かなもの」から離れて行き、グローバル世界の中で、金融的なものに接近すればするほど経済が不確かで不安定なものになる』という危惧を、実はスミスも抱いていたというところにある。この際、国富論を今一度読みたくなってきた。
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