経済学という教養
そうはいっても
経済学は門外漢です。ので、感想文程度。
読者としては、いまだに若干不安定感を感じる稲葉氏の啓蒙書。ただしかし、救われたところがあるのは事実なのですよ、著者のいう「ヘタレ中流インテリ」としては。中流国立大文学部で、自家中毒に陥ってた身としては。少なくとも、(この内容が空論かどうか判断つきませんが)誰かがやらんといかん本では「あった」と思います。
癒し系です。自己を肯定してくれる書です。そんな本に励まされてしまった自分は、確かにヘタレと自覚した次第。で、何となく前向きになってみたりしたんです。
人文系ジャーナリストのおしごと
著者は一橋大学社会学部出身で、その後もまともに経済学を学んだ形跡がない人文系ジャーナリストである。したがって経済学は理解していないものの、どの経済学者がどんな学説を唱えているかに通じている。マルクス経済学や文化左翼の人々が近代経済学にうといということにつけこみ、彼らを批判しているが、この本を読んでも肝心の経済学のことは何もわからないので、たぶん批判することのほうが目的である。何か倒すべき敵がいて、そこに危機があるかのように煽りながら、よく見ると内実が何もないという不毛な精算主義、構造改革論者の典型である。内実のないレッテル貼りをして人を糾弾するやり方が子供じみており、小泉政権とよく似ている。この本で想定されている読者層は中低位の私大文系の学生であるので、それなりに経済学を学びたいひとたちにとっては読む必要もなくむしろ有害である。
この本で「本物のサヨク」を選別できる?
まず、著者を少しでも知っている人には問題とする必要すらないことだが、「稲葉振一郎」は実名です(笑)。もうかなり昔(1990年春から1992年春にかけての2年間)、職場で毎週著者とした議論は、私にとっては大変刺激的で懐かしい思い出である(周りからはやや浮いていたが)。また、私と著者は「死は共鳴する」の小松美彦氏の面接を同じ日に受けたのだが、そのとき著者の「教養」の懐の深さとセンスのよさを直ちに感じたことも想起される。さて、前置きはこのくらいにして、著者にとって「教養」とは、「知的分業を可能とする社会的な枠組みと、それへの信頼感の共有」(本書290頁)であり、「「公共性」と別のことではない」(同)。もちろん、本書では「ポストモダンの言説」においては「ださくて批判しておくのがお約束=基本的な作法」(批判しなければ「知的に鈍感な田舎者」というレッテルが貼られた)であった「ハーバーマス」の、本格的処女作「公共性の構造転換」も最初から重要な位置を占めている(ちなみに、20年ほど前に指導教官・学部の先輩達と札幌の居酒屋で会ったハーバーマス自身は、「気のいい巨漢のおじさん」という感じで親しみが持てた)。私が著者の「教養」の懐の深さとセンスのよさを感じたのは、いわゆるポストモダンのテキストはもちろん、こういったところも全て押さえていたことにもよるのだろう。他にもいるのだろうが、著者の年代でこういった人は珍しいのではないか。そこで、本書の期待される機能は、これもポストモダン言説においては禁句であったが、「本物」、さらにいえば「本物のサヨク」の過酷な選別機械としてである。この本を通過して、一体どういう「本物」が生き残るのだろうか。
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