新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義
P.F. ドラッカー(著)
定価: ¥ 1,680
販売価格: ¥ 1,680
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おすすめ度: 
発売日: 1998-06
発売元: ダイヤモンド社
社会学者・経済学者としてのドラッカー
本書は「経済人の終わり」で全体主義の恐ろしさと、それを繰り返してはならない、
というドラッカー自身の主張を踏まえて展開したものです。
全体主義に陥らないためには、
個々の人間としては、自由=責任であることが重要であるとし、
組織には権力が不可避だとしたうえで、社会的責任を果たす為に、
権力の正当性を証明することが重要であるとしています。
今の日本は、これを踏まえていません。
個々の人間は、自由を自己満足とし、不満があれば誰かに責任をなすりつけ、
組織は自己保身のために、様々な受益者を不幸にしています。
ドラッカーはマネジメント領域では有名ですが、
社会学者・経済学者としての側面は注目されていません。
しかし、彼がマネジメント領域に入っていったのは、
本書の主張を実践するためには、マネジメントが重要であると考えたからです。
ドラッカーの著作を理解する為には、
「経済人の終わり」と本書を読まなければ理解することはできません。
そのうえで、「企業とはなにか」「現代の経営」「マネジメント」を
読むべきです。
なぜもっと読まれないのか・・・
ようやく日本でもまっとうな保守派の主張が聞かれるようになりました。自由を取り違えて壊れかかった日本の社会への危惧からだと思いますが、「自由とは権利ではなく義務である」という本書の中の記述ほどズバリとリベラルの間違いをついたものを読んだことがありません。
高い本でもないしもっと読まれて良いはずなのに。
ドラッカー、自由と保守を洞察する
「どうすれば良い社会を作れるか」社会科学の永遠テーマともいえるこの命題に、ドラッカーが挑みます。本書でドラッカーの言う良い社会とは、「自由な、機能する社会」です。そのモデルを、19世紀のイギリス保守思想とアメリカの建国の知恵に求めました。「自由な機能する社会」は2つの条件を備えていると言います。「その社会は位置と役割を個人に与えうるか」「権力を行使する機関に、権威を認められた正統性があるか」反対に、悪しき例としてルソーに淵源を持つ全体主義とファシズムを示し、さらにファシズムを自由の放棄と戦争によって社会を機能させようとする試みと断じます。ファシズムの本質的要因は、国民性でも産業構造でも地理的要因でもなかった。国民が位置と役割を得られぬことに絶望し、選択と責任を放棄したからであった。ドラッカーの自由の定義はJ.Sミルの自由とは全く異なる。ミルは「自由の名に値する唯一の自由は、我々が他人の幸福を奪い取ろうとせず、また幸福を得ようとする他人の努力を阻害しようとしない限り、われわれは自分自身の幸福を自分自身の方法において追求する自由である」(自由論)としています。これでは援助交際をも自由と居直る放縦につながりかねません。一方、ドラッカーは「自由とは解放ではない。責任を伴う選択である。楽しいどころか一人ひとりにとって負担である。自らの行為、社会の行為について自ら意思決定を行い、それらの意思決定に責任を負うことである」とします。ドラッカーの自由が断然優れているのは一目瞭然でしょう。
本書では経済・組織・制度論を超えて、哲学的洞察から社会作りを語っています。本書が出版されたのは戦中の1942年。60年前にすでに、共産・全体主義に対し哲学的ともいえる反駁を加えていたかと思うと、その洞察力には驚くばかりです。
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